社交ダンスやフォークダンスはいつ頃日本に伝わってきたのだろうか?
タンゴ Tango
1880年(明治13年)現存する最古のタンゴ「バルトーロ」の楽譜が出版されてすでに150年以上たちました。ヴェノスアイレスの下町ボカ地区で日陰者のようにひっそりと生まれたタンゴは、やがて欧州に渡ってコンチネンタルタンゴを産みました。 1900年の初頭は、タンゴ音楽の成長期であると同時に、タンゴのダンスの成長期でもあり、幾多のダンスの名手があらわれました。 1907年の秋に、カミーユ・ドウ・リナールによってヨーロッパスタイルにアレンジされたタンゴは、昭和五年頃にはわが日本にも伝えられて、当時の社交ダンスの花形としてもてはやされ、またそのリズムは歌謡曲にも多く取り入れられ、日本人の心の奥深く刻み込まれました。
ブルース Blues
”セントルイスブルース” や ”五つの銅貨”などの曲で踊るブルースは、クリスマスダンスパーティや、職場の慰安旅行、保養地のホテルのホールで踊るパーティダンスです。アメリカのニューヨークは、マンハッタン島の開発から始まり、その開発のときオランダの移民の人たちが食糧を作るため土着のインディアンからトウモロコシやピーナッツの作り方を,教えてもらったのだそうです。その収穫を記念する感謝祭を盛大に行い、食糧の作り方を教えてくれたインディアンや、よく仕事をしてくれた人々に感謝の気持ちを込めたプレゼントとして、楽しいダンスパーティを開いたといいます。この習慣と、北欧のセント・ニコラス(サンタ・クロース)の良い子供たちになにか品物を贈るという奇特なお話が重複して、毎年12月24、25日になると、”ホワイトクリスマス”でブルースを踊り、”ジングルベルでジルバを踊ってはお祭りのような楽しい夜を過ごすのです。
ジルバ Jitter Bug
終戦と同時にアメリカ進駐軍がチュインガムをかみながら、”ボタン”と”リボン”を唄い、”インザ・ムード”で「ジルバ」を踊っては太平洋戦争に勝った喜びを謳歌しているようでした。アメリカ人がよく踊るジッタ-バグと呼ぶこのダンスは、日本人にジルバと聞こえて浸透してしまいました。このジルバは、後にウォルター・レアードというラテンダンスのチャンピオンによって、「ジャイブ」という競技種目に改良され世界選手権大会で踊られるようになりました。
スクエア・ルンバ Square runmba
1825年、キューバに英国のフォークダンスがフランス経由で伝わり、黒人のリズム感覚が加わって ”コントラダンサ” と呼ばれるものになりましたが、これが後にラテンアメリカ各国やスペインでも流行した ”ハバネラ” というリズムで、アルゼンチンのタンゴにも影響を与えました。 1930年(昭和5年)に ”ピーナッツ・ベンダー” の曲がニューヨークから世界的にヒットし、この曲のヒットをきっかけにルンバの踊りもブームとなり、ラテン系ダンスと音楽が世界に拡がりを見せ始めました。
マンボ Manbo
戦後、決まった家や職を持たない人々や闇市でごったがえす敗戦国日本、大衆は古橋選手の水泳に勇気づけられ、美空ひばりの歌に感動し、ボクシングの白井選手の世界一に喜び、街頭の白黒テレビでは、力道山が活躍していた頃ペレス・プラードがルンバをもとにして作った「マンボ」がブームになり全盛時代を迎え昭和30年に最高潮に達しました。マンボはルンバと同じでラテン音楽の宝庫と言われるカリブ海に浮くキューバが祖国。後に「チャチャチャ」となったシャッセを入れて踊る「リアルマンボ」が大衆のダンスとして定着しました。